したがって、真の批判の批判は、批判の論理をもう一度逆転させることではありえない。
それは、批判が用いている諸概念、諸手続き、これらの概念及び手続きの系譜、そしてそれらが社会的解放の論理と絡み合ってきた仕方を再検討することを通じて行われる。
とりわけ、批判のモデルの逆転の核心にあって、消えることのなかったイメージの歴史に、新たな眼差しを向けることを通じて行われる。それは、消費する個人は商品とイメージの反乱に溺れ、それらが与える偽りの約束に誘惑されている哀れな馬鹿者であるという、完全に使い古されてはいるがいつでも利用可能なイメージである。商品とイメージの有害な陳列をこのように脅迫的に気にかけたり、そうしたものの犠牲者であるとも知らずに良い気になっているものたちをこのように描き出したりすることは、バルト、ボードリヤール、あるいはドゥボールの時代に生まれたわけではない。それは十九世紀の後半に、ある特別なコンテキストのなかで台頭してきたのである。
「ジャック・ランシエール 開放された観客」