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読んだ本から(5)

現実そのものなどない。われわれにとっての現実として与えられ、われわれの知覚、思考、介入の対象として与えられているものの、種々の布置があるのだ。現実は常にフィクションの対象となる。つまり、見えるもの、言いえるもの、そして為しえるものが結び合わされる空間の構築の対象となるのだ。支配的なフィクション、コンセンサスに基づくフィクションは、自らを現実そのものなのだと思わせ、この現実の領域と再現=表象や仮象の領域、オピニオンやユートピアの領域との間に単純な分割線を引くことで、みずからのフィクションとしての性格を否認しているのである。芸術的フィクションも政治的行動も、この現実に穴を開け、論争的な様式でそこに亀裂を生じさせ、それを複数化する。政治の作業は新たな主体を発明し、種々の新たな客体を入り込ませ、共有されている所与の異なる知覚をもたらすが、この作業もまたフィクションの作業なのである。それゆえ、芸術から政治への関係は、フィクションから現実への移行なのではなく、フィクションを産出する二つの様式の関係なのである。芸術の実践は、その外側にあるとされるような政治のために、様々な意識のあり方や人々を動員するための様々なエネルギーを提供する道具なのではない。だからといって、自らの外に出て、集団的な政治行動の形式となるのでもない。この実践は、見えるもの、言いえるもの、為しえるものの新たな風景を描くことに寄与する。それはコンセンサスに抗して、別の形の「共通感覚」、つまり、論争的な共通感覚の様々な形式を作り上げるのである。

「ジャック・ランシエール 解放された観客」

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