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読んだ本「芝生の復讐」

"わたしが彼に向かってゆっくり手を振ると、彼もゆっくりと手を振ってそれに答えた。私たちが手を振る動作は、私たちの腕を起点にするとても遠い旅のようで、それはさながら二人の人間がふたつの別々の町にいて、そこから手を振っているような感じだった。そう、タコマとセイレムの町でそれぞれ手を振っているみたいで、私たちの手の動きは何千マイルも隔たった場所で振られる手の動きのこだまにすぎなかったのだ。"

『リチャード・ブローティガン「芝生の復讐」藤本和子 訳』

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読んだ本「言語・思考・現実」

ところで、われわれがある実際に存在するバラの茂みのことを思うとき、われわれはその思いが実際に存在する茂みのところまで行き、サーチライトで照らすようにそれにまといつくとは考えない。 それでは、われわれはバラの茂みのことを考えるとき、われわれの意識が交渉を持っている相手は何だと思っているのであろうか。 多分、バラの茂みではなくて、それの心的代用物であるところの「心的映像」と交渉を持っていると考えるだろ

読んだ本「つぶて」

手向けの小石、それは賽銭の原形である。 神に詣で、投げてささげる賽銭が金銭故に、授かるはずの御利益の代償のように思われ勝ちだが、実際は金額にそんなに高下のないのをみればもっと別の意味があると思うべきだ。 賽銭はやはり手向けである。 私たちが神と交流をもとうとするとき、その橋渡しに手向けの心と、物としての賽銭の用意を必要と する。 そして、銭のなかった時代、人は石ころ一つをもって神の前に立ったのであ

読んだ本「手長足長 土蜘蛛研究」

手長、足長については日本紀に面白い解釈がある。神武天皇が葛城の土蜘蛛を誅し給う条に、「土蜘蛛の人と為りや身短く手足長く、侏儒と相類す」とある。 土蜘蛛の民族的研究は、いずれ本誌上で詳論する予定であるが、結局は先住民族の或る者に対した貶称で、摂津風土記に説明してある如く、彼ら穴中に居たからの名であろう。 これを日本語によって旧説の如く「土籠(つちごもり)」と解するか、中田法学博士のかつて史学雑誌で論

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