その一生のほとんどを、この狭苦しい賃貸住宅で過ごすであろう哀れな猫。
うわあうわあと、私に向かって奇妙な声で啼く。
その意味は(私の理解する範囲において)単純で、遊んで欲しい、オヤツが欲しい、トイレが汚い、水が欲しい、撫でて欲しい、などである。(表現にはジェスチャーも含まれる)
猫は、それらの享楽が、わたしや妻から与えられなければ、自らの力では決して手に入らない物であること、この狭苦しい部屋で、そのようにしながら単調な一生を過ごさなければならないであろうことなどに、焦りや不安を感じることは一切ない。
いつでもただただ欲しいものを一心に求め、もりもりとよく食べ、くるくるとよく遊び、むくむくとよく眠る。
時折、猫とは何と愚かしい生き物かと、憐れみとも苛立ちともつかぬ傲慢な気持ちが私の中に立ち上がってくる。
しかし、真っ黒に輝く日食のような、曇りない目で私を見詰め、いつでも欲しいものをただひたすらに求めるその姿に、私は笑ってしまい、愛と畏敬のようなもので少しだけ胸が詰まる。
猫は決して、人間のように生きていることに醒めたりはしない。
いつでも生きることの、ある種の熱狂の内にあるのだ。
いつかホームセンターで見た早見表によれば、うちの猫は人間換算で二十才位、今は元気な盛りであるが、あと十年もすると、遊びにも億劫になり、寝てばかりになるという。
そのようにいろいろなことが億劫になっても、人間のように特段何を後悔することもなく、だんだんと眠くなり、ただ歳をとり、眠くなり、具合が悪くなって、眠くなり、そして死ぬのだ。
人間のように死んだ後どうなるだろうなどと考えることはない。
思うに、死んだ後にどうなるかなどという空想は、主に生きている人間のための慰めであり、死んだ人そのものや、死ぬことそのものとは関係がないのではなかろうか。
(だから下らない、意味がないというつもりはないが)
ともあれ、人間とは全く別の立場にある者の生態や、物の見え方やその捉え方を、あれこれ勝手に想像し解釈し、都合よく自らの物の見方に利用するのが人間の特殊な能力であろうし、それが全てのやっかいの元であろうし、そしてそれこそが人の愛くるしさなのであろう。
輝く日食のような目で。