top of page

読んだ本「西瓜糖の日々」

わたしが誰か、あなたは知りたいと思っていることだろう。

わたしはきまった名前を持たない人間のひとりだ。

あなたがわたしの名前をきめる。

あなたの心に浮かぶこと、それがわたしの名前なのだ。

たとえば、ずっと昔に起こったことについて考えていたりする。

誰かがあなたに質問をしたのだけれど、あなたはなんと答えてよいかわからなかった。

それがわたしの名前だ。

そう、もしかしたら、そのときはひどい雨降りだったかもしれない。

それがわたしの名前だ。

あるいは、誰かがあなたになにかをしろといった。

あなたはいわれたようにした。

ところが、あなたのやりかたでは駄目だったといわれた。

ー「ごめんな」ー そして、あなたはやりなおした。

それがわたしの名前だ。

もしかしたら、子供のときした遊びのこととか、あるいは歳をとってから窓辺の椅子に腰かけていたら、ふと心に浮かんだことであるとか。

それがわたしの名前だ。

それとも、あなたはどこかまで歩いて行ったのだったか。

花がいちめんに咲いていた。

それがわたしの名前だ。

あるいは、あなたはじっと覗きこむようにして、川を見つめていたのかもしれない。

あなたが愛していた誰かが、すぐそばにいた。

あなたに触れようとしていた。

触れられるまえに、あなたにはもうその感じがわかった。

そして、それから、あなたに触れた。

それがわたしの名前だ。

リチャード・ブローティガン著 藤本和子訳『西瓜糖の日々』河出書房新社 1968年

関連記事

すべて表示

読んだ本「言語・思考・現実」

ところで、われわれがある実際に存在するバラの茂みのことを思うとき、われわれはその思いが実際に存在する茂みのところまで行き、サーチライトで照らすようにそれにまといつくとは考えない。 それでは、われわれはバラの茂みのことを考えるとき、われわれの意識が交渉を持っている相手は何だと思っているのであろうか。 多分、バラの茂みではなくて、それの心的代用物であるところの「心的映像」と交渉を持っていると考えるだろ

読んだ本「つぶて」

手向けの小石、それは賽銭の原形である。 神に詣で、投げてささげる賽銭が金銭故に、授かるはずの御利益の代償のように思われ勝ちだが、実際は金額にそんなに高下のないのをみればもっと別の意味があると思うべきだ。 賽銭はやはり手向けである。 私たちが神と交流をもとうとするとき、その橋渡しに手向けの心と、物としての賽銭の用意を必要と する。 そして、銭のなかった時代、人は石ころ一つをもって神の前に立ったのであ

読んだ本「手長足長 土蜘蛛研究」

手長、足長については日本紀に面白い解釈がある。神武天皇が葛城の土蜘蛛を誅し給う条に、「土蜘蛛の人と為りや身短く手足長く、侏儒と相類す」とある。 土蜘蛛の民族的研究は、いずれ本誌上で詳論する予定であるが、結局は先住民族の或る者に対した貶称で、摂津風土記に説明してある如く、彼ら穴中に居たからの名であろう。 これを日本語によって旧説の如く「土籠(つちごもり)」と解するか、中田法学博士のかつて史学雑誌で論

Comments


bottom of page