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読んだ本「知恵の樹」

きみはいままでに、もっともありふれた会話がどんなものでも必然的にともなっているプロセスに、注意をむけたことがあるだろうか?

言語として発声することや、単語が出現する順序や、話し手が入れかわるときなどについて?

ぼくらはふつうこうしたことをあまりにも雑作なくやってしまうので、日常生活におけるすべてのことは、単純で直接的なもののように見える。

事実、日常生活は、ぼくらにはあまりにも単純で直接的なもののように見えるため、しばしばそのゆたかさを見損ない、その美しさを味わい損ねてしまう。

それでもやはり、ほんとうは日常生活だって、行動の調整の、洗練されたコレオグラフィ[舞踊術]

なのだ。


ウンベルト・マトゥラーナ/フランシスコ・バレーラ著 菅啓次郎訳『知恵の樹』筑摩書房1997年

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