宇宙人の幽霊 Alien Ghosts
基本的に、東京府中のLOOPHOLEで2021年12月に開催した個展「為と術」の再構成であるが、翌年2月に友人が突然亡くなったことによりかなり異なる要素が混入した。
死生観、信仰、認識など問題領域は多岐に渡るが、「この生をいかに肯定するか」という非常に素朴な衝動に基づいている。
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すべての人間は、自分の人生と全く同じ人生を送っている数限りない自己の分身を、この宇宙の広がりの中に持つことになる。それは現在の年齢の自己だけでなく、そのすべての年齢時における別の自己という形でも、無限かつ永遠なのである。全ての人間は現在の一瞬ごとに、何十億という誕生しつつある瓜二つの自分、死んでゆく自分、また誕生から死までの生涯の一瞬ごとに並んでいるすべての年齢の自分を、同時に持つのである。
もしも誰かが、宇宙のどこかにその秘密を尋ねるべく問いを発したら、その誰かの何十億という瓜二つ人間も、同じ考えと同じ疑問を持って同時に空を仰ぎ、目に見えない彼らのすべての視線は交差する。そしてこの沈黙の問いかけが宇宙をよぎるのは一度きりではなく、絶え間なく常に、である。瞬間ごとの永遠が今日の状況を、すなわち、我々の瓜二つ人間を載せた何十億という瓜二つの地球を眺めてきたし、これからも眺めるであろう。
オーギュスト・ブランキ著 浜本正文訳『天体による永遠』雁思社 1985年(原著の出版は1872年)
※訳の一部は作家により変更されています。
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大昔、人々は大きな丸い石に祈りを捧げ、彼らはその儀式の中で、性行為を神に捧げました。子が産まれる仕組みには、神の力が不可欠であると考えられていたからです。しかしそれはいつか簡略化され、女型や男型と呼ばれる性器の模型が捧げられることになりました。さらに時間が経つと、いつのまにかお供え物だったはずの模型そのものが神さまの体になっていました。さらに後には、女性器と形が似ていることから「耳の病気を治す神さま」になったという例もあるそうです。それは「サイノカミ」などと呼ばれ、古代日本の原始宗教を受け継ぐものとして今も存在しています。
石は、弓矢よりもずっと古い人類最初の武器であり、石投げは神聖な儀式でもありました。最初のお賽銭はお金ではなく、神さまに「石を手向ける」ことだったそうです。後に神事は「遊び」や「芸能」に変化もしました。
当たり前のことですが、情報技術が発達した現代でも、人が多い場所とそうでない場所には文化的な差異があります。近世以前の日本ではその差異はとても大きく、着物を着て米を栽培している人々の近くに、石器時代と変わらない生活をする人々がいただろうと言われています。いつしかその民族と日本の臣民との間で争いが起こり、彼らは滅ぼされてしまいました。「茨城県」の名前の由来には、そんな伝説があると言われています。そういう人々の記録はほとんど残っていませんが、例えば巨人や、手長足長、土蜘蛛、山男、山女などと言われる伝説の中に、その存在を裏付けるものがあるかも知れません。
いつか友人が、彼の3才の娘が奇妙に身体を揺らしながら、「宇宙人の幽霊」の真似をするという動画を見せてくれました。
遠い宇宙の、例えばブラックホールの中に、「あの世」があるでしょうか。死んで身体をなくしたら、秒速350mの風が吹くという木星の嵐の中を覗くこともできるでしょうか。どこまでも届く目で、大切な人をずっと見守ることができるでしょうか。
この世界の理について、物理学はとても上手に説明してくれるように見えます。しかし遠い遠い宇宙でのそれは、わたしたちが知るものとは根本から全く違った振る舞いをするだろうと言われます。そんな聞きかじりの情報に、この世界の向こう側の可能性を見てしまうのは、大昔の人が地の果てや空の向こう、地の底、あるいは山の奥の奥に「あの世」があると信じたことと同じでしょうか。
わたしたちはみんな、ずっと昔から、この不可解で残酷な生をなんとか手懐けようと手を尽くしています。
この展示も、(そうは見えないかもしれませんが)その数ある戦いの中の小さなひとつです。
どこまでも交わりそうで交わらない、けれど本当は全部が繋がっているのかもしれない、無数の線の集まり。それはさながら、整理を怠った音楽機材のケーブルの山のようです。端っこを探してみるが見つからない、しかし見つからなくてもよい。