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わたしは、「いる」と「いない」のあいだにとても興味がある。

「いる」と「いない」の間の層はとてつもなくぶ厚く、わたしたちはそのほとんどについて感じることも説明することもできないだろう。古代からずっと続く、理解し得ないものに「出会う」という現象。それはどういうことか、彼らは何を経験したのか?経験とはなんなのか?

このような問いは100年なんて当然で、500年や1000年で古くなったりはしないし、たぶん人が一生かけても何かが解るということもないだろう。

「ことば」は、人間の道具ではない。

それはむしろ世界そのものだ。人がことばを発するのではなく、あることばの流れの束が人として現れる。

多分、ことばという言葉の意味はもっと広いのである。

例えば、ぬかるみに残る足跡、細菌の化学的応答、森のネットワーク、免疫反応、光の屈折、結晶化、数学の体系、これらも同じように、異なることばの異なる現れだ。

わたしたちは「ことば」によって現れ出た存在なのであるから、その意味の外に出ることはできない。それは解釈であり、同時に解釈ではない。この不確かさそのものに近づきたいと考えることはそれ自体大きな矛盾である。

 

なぜ何かをつくるのかと問われたとき、「よくわからないけど」わたしはそんな風に応えることしかできない。

わたしにとって「つくる」ことは、「解き明かす」こととはまるで反対のことだからである。

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