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読んだ本「幼年期の終り」

"ではこれが、人類の終焉なのか――ジャンは思った。彼の胸中にあるのは、あらゆる悲しみを越えた涯に横たわる、ある諦観だった。これが人類の終末なのか――いかなる予言者も予見しなかった終末、楽観主義と悲観主義とをともに退ける終末。にもかかわらず、この姿は妥当なのだ。それには、偉大な芸術作品の持つ崇高な必然性があった。ジャンは底知れぬ広がりをもった宇宙を見てきた。そして、宇宙が人類のための場所ではないことを知った。今こそ彼は悟った――かつて彼を星々へ誘った夢が、その究極の分析においていかに空しいものであったかを。なぜなら、ほかでもない、星々に通ずる道は二つに分かれていたが、そのいずれも、人間の希望や恐怖を少しでも斟酌してくれるようなゴールへはつながっていなかったからだ。"

『アーサー・C・クラーク「幼年期の終り」福島正美 訳』

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ところで、われわれがある実際に存在するバラの茂みのことを思うとき、われわれはその思いが実際に存在する茂みのところまで行き、サーチライトで照らすようにそれにまといつくとは考えない。 それでは、われわれはバラの茂みのことを考えるとき、われわれの意識が交渉を持っている相手は何だと思っているのであろうか。 多分、バラの茂みではなくて、それの心的代用物であるところの「心的映像」と交渉を持っていると考えるだろ

読んだ本「つぶて」

手向けの小石、それは賽銭の原形である。 神に詣で、投げてささげる賽銭が金銭故に、授かるはずの御利益の代償のように思われ勝ちだが、実際は金額にそんなに高下のないのをみればもっと別の意味があると思うべきだ。 賽銭はやはり手向けである。 私たちが神と交流をもとうとするとき、その橋渡しに手向けの心と、物としての賽銭の用意を必要と する。 そして、銭のなかった時代、人は石ころ一つをもって神の前に立ったのであ

読んだ本「手長足長 土蜘蛛研究」

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