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読んだ本「つぶて」

手向けの小石、それは賽銭の原形である。

神に詣で、投げてささげる賽銭が金銭故に、授かるはずの御利益の代償のように思われ勝ちだが、実際は金額にそんなに高下のないのをみればもっと別の意味があると思うべきだ。

賽銭はやはり手向けである。

私たちが神と交流をもとうとするとき、その橋渡しに手向けの心と、物としての賽銭の用意を必要と

する。

そして、銭のなかった時代、人は石ころ一つをもって神の前に立ったのである。

中沢厚著『つぶて』法政大学出版局 1981年

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