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読んだ本「メルロ=ポンティと病理の現象学」

"ベルクソンによれば、哲学的な主体は、純粋な精神であるどころか、現在という特定の時制に本質的に位置づけられている。時間の流れ(「持続」)の一局面に位置づけられることで、人間は精神になるのではなく、自分の「身体」と当の身体が関わる「外部世界」を発見する。このように、ベルクソンは、哲学的な主体を具体的な存在(現在、身体、外部世界)と結び付けて、思索を行っており、若き日のメルロ=ポンティは、こうしたスタンスを評価している。実際に、『物質と記憶』のベルクソンは、人間の知覚行為は、過去の膨大な記憶の蓄積を前提とすると主張している。"

"人が、現在という時制の中で、ある一定の運動を達成する時に、彼は、記憶・イマージュの無限の蓄積のなかから、無意識的に、特定の記憶を選び出している、そして、行為上で、そのイメージを表現(「表象」)する。このときに、記憶・イマージュの無限の連鎖に、ある一定の枠組みと制限が設けられる。他方で、現在の運動と知覚が遂行され記憶のなかに保存されることで、今度は、記憶・イマージュの蓄積が増幅し、新たな運動と知覚を産出する。"

"このように、刺激の形は、有機体そのものによって、つまり外部の諸活動に自分を差し向ける独自のやり方によって作られている。有機体は、存続できるようになるためにも、自分の周辺で、多量の物理的で科学的な作用因におそらく遭遇しなければならないのだろう。しかし、有機体こそが、自分の受容器に固有の性質、その神経中枢の閾、諸器官の諸々の活動に応じて、物理的な世界の中で、自分が感知できる諸々の刺激を選択しているのである。(SC,11-12/33)したがって、有機体が暮らす世界の物理的・化学的な世界が、有機体の行動を規定するのでもなければ、そこから、外部の刺激と有機体の反射法則が構築されるのでもない。むしろ、「環境世界」の中では、有機体が、自らの行動の文節(「受容者に固有の性質」、「神経中枢の閾」、「運動」)に応じて、必要となる刺激を選び取っているのである。刺激の側も、環境世界の中では、それぞれ独立した要素にとどまらず、有機体の行動に対応したひとつの「布置」(SC,12/34)を常に形成している。この布置が、局所的な興奮に意味を与える(idid.,強調は著者)。条件反射が有機体の刺激に対する反応を規定するのではなく、有機体は反射法則に馴らされる以前に、生活条件に応じて、自分の行動を規定する一つの「意味」として刺激を選び取っているのである。"

『澤田哲生「メルロ=ポンティと病理の現象学」』

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