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読んだ本「宇宙の扉をノックする」

"かつてリチャード・ファインマンは自分の理論のひとつについて語ったときに、わざとこんな意地悪い言い方をした。「もしこれが気に入らないなら、どこかよそへ――もっと規則の単純な別の宇宙にでも行ってください...私がこれからお話しするのは、これを理解するために必死に頑張ってきた人類に、これがどう見えているかということです。それを気に入らないというのであれば、もう残念としか言いようがありません」私たちが真実だと信じているもののいくつかはあまりにも奇妙すぎて、あるいはあまりにも込み入っていて、どうにも受け入れがたいと思っている人もいるかもしれない。だが、それでも事実は変わらない――自然の仕組みとはそういうものなのである。"

『リサ・ランドール「宇宙の扉をノックする」 向山信治 監訳 塩原通緒 訳』

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読んだ本「言語・思考・現実」

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読んだ本「つぶて」

手向けの小石、それは賽銭の原形である。 神に詣で、投げてささげる賽銭が金銭故に、授かるはずの御利益の代償のように思われ勝ちだが、実際は金額にそんなに高下のないのをみればもっと別の意味があると思うべきだ。 賽銭はやはり手向けである。 私たちが神と交流をもとうとするとき、その橋渡しに手向けの心と、物としての賽銭の用意を必要と する。 そして、銭のなかった時代、人は石ころ一つをもって神の前に立ったのであ

読んだ本「手長足長 土蜘蛛研究」

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