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読んだ本「アフリカの創世神話」

"聖なる光と闇が織りなすこれらの空間は、個人の幻想の世界ではない。そこにはドゴンの社会生活にとって本質的なあらゆる要素が含まれている。そこで物語られているのは単に過ぎ去った事件、追憶の中にのみ存続する過去ではない。神話空間は現実の背後にあって今なお働き続けている聖なる力の世界である。それはいわば現実をかくあらしめている形相でありイデアの世界である。現実世界の事象は神話に現れる事象の象徴として存在している。ドゴンにおいては、この象徴の体系は途方もなく発達している。かくして神話空間は世界の隅々にまで浸み亘っているのである。全ての事象は神話を象徴し、そのことによって創世の時を現在に再現している。存在するとは、そのようにあることである。"

「阿部年春 『アフリカの創生神話』」

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読んだ本「つぶて」

手向けの小石、それは賽銭の原形である。 神に詣で、投げてささげる賽銭が金銭故に、授かるはずの御利益の代償のように思われ勝ちだが、実際は金額にそんなに高下のないのをみればもっと別の意味があると思うべきだ。 賽銭はやはり手向けである。 私たちが神と交流をもとうとするとき、その橋渡しに手向けの心と、物としての賽銭の用意を必要と する。 そして、銭のなかった時代、人は石ころ一つをもって神の前に立ったのであ

読んだ本「手長足長 土蜘蛛研究」

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