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読んだ本「西瓜糖の日々」

わたしが誰か、あなたは知りたいと思っていることだろう。

わたしはきまった名前を持たない人間のひとりだ。

あなたがわたしの名前をきめる。

あなたの心に浮かぶこと、それがわたしの名前なのだ。

たとえば、ずっと昔に起こったことについて考えていたりする。

誰かがあなたに質問をしたのだけれど、あなたはなんと答えてよいかわからなかった。

それがわたしの名前だ。

そう、もしかしたら、そのときはひどい雨降りだったかもしれない。

それがわたしの名前だ。

あるいは、誰かがあなたになにかをしろといった。

あなたはいわれたようにした。

ところが、あなたのやりかたでは駄目だったといわれた。

ー「ごめんな」ー そして、あなたはやりなおした。

それがわたしの名前だ。

もしかしたら、子供のときした遊びのこととか、あるいは歳をとってから窓辺の椅子に腰かけていたら、ふと心に浮かんだことであるとか。

それがわたしの名前だ。

それとも、あなたはどこかまで歩いて行ったのだったか。

花がいちめんに咲いていた。

それがわたしの名前だ。

あるいは、あなたはじっと覗きこむようにして、川を見つめていたのかもしれない。

あなたが愛していた誰かが、すぐそばにいた。

あなたに触れようとしていた。

触れられるまえに、あなたにはもうその感じがわかった。

そして、それから、あなたに触れた。

それがわたしの名前だ。

リチャード・ブローティガン著 藤本和子訳『西瓜糖の日々』河出書房新社 1968年

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